おととい、、「徒然草」の一節を書いたけれど…
あらためて、読んでみると…深く考えさせられた。
「夏果てて秋の来るにはあらず。夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり・・・」とは
季節というものは夏が終わって秋になり、秋が終わって冬になる、という単純なものでなく、
夏の間にも秋の気配が少しずつ育っている、それを重ねて秋が定まってくるという事だけど…
鎌倉時代、1330年頃に吉田兼好が
この現代で言うところのブログ(随筆???)に…
書いていたのだから、考えさせられる。
必ず秋が忍び寄り、そして冬が到来する。
夏の間にこそ秋の訪れを察知して、今日みたいな冬への備えをしておかなければならないと…。
まさに、歴史は繰り返している。
つまらない本を買ってきて、責任の無い意見をテレビで見ているよりも
遥かに、奥の深い事や真実を伝えている。
「何事にも前兆があり、急にある事態が出現するのではない。」
当たり前の事だけれど、あらためて意識して生きていかないといけない。
「徒然草」第百五十五段(訳)
■俗世間にまみれている人は、第一にタイミングを知っていなくてはならない。
物事の順序は間が悪くなると、人が聞くと反対されたり、気持ちも通じ合うことなく、
失敗に終わることになる。
そうしたタイミングを知っていなければいけないのだ。
だけど、病気になったり、子供が生まれそうになったり、死んでしまうことは
タイミングを考えてもどうにもならないし、都合が悪いと言っても逃れられない。
物事が生まれ、ある限りの期間を存在し、変化し滅んでいくといった移り変わりのように、
本当に大事なことといえば、荒れ狂う大河が反乱しながら流れていくのと同じようである。
ちょっとでも留まることがなく、真っ直ぐに突き進んでいくのである。
だからホトケの道についても、俗世間にまみれるにしても、
必ずやらなくてはいけないと思ったら、タイミングを考えてはいけない。
つまらないことを心配して、判断中止をしてはならないのである。
春が終わると夏がやって来て、夏が終わると秋がやって来るのではない。
春は早くから夏の空気を作り出し、夏の中には秋の空気が混ざっている。
秋はだんだん寒くなり、十月は小春というように暖かく、草も青み出して、
梅の花が蕾みだしたりもする。
木の葉っぱが落ちるのも、落ちてから目が生えるのではなくて、
地面から芽生える力に押し出され、耐えられなくなるから落ちるのである。
新しい力が地面で待っているのだから、変化するスピードはとても速い。
生きている間、年老いて病気になって死んでしまうまでの移り変わりは、
このスピードよりも速いのである。
季節の移り変わりは、それでも決まった順序がある。
死んでしまう瞬間は順序を待ってくれないのだ。
死んでしまうということは、未来からやって来るものではない。
後ろから追いかけてくるものなのだ。
人は誰でも死がやって来ることを知っていながらも、
それほどまで切迫して待っていないときに、忘れた頃に死がやって来るのである。
海辺の乾いている部分が遙か遠くにあったとしても、
海から潮が満ちてしまうのと同じ事なのだ。
■【原文】世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。
序悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。
さやうの折節を心得べきなり。
但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、
序悪しとて止む事なし。
生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るゝが如し。
暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。
されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。
とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。
春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、
十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。
木の葉の落つるも、
先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。
さて…、「成人の日」で誰もいない事務所に一人…
外はチョッと雪が降っていますが…
能登半島は、大雪にはならないみたいです。
出張に備えて、準備する事にします。
ゞ(* ̄Oノ ̄*)
何事にも時があります。
怒らず 怖れず 悲しまず いつも生き生きと明るく朗らかに、颯爽として泰然として、努力をし続けながら、時 を待ちましょう。
冬の中に春が芽生えているのですから。
何事にも時があります。
怒らず 怖れず 悲しまず いつも生き生きと明るく朗らかに、颯爽として泰然として、努力をし続けながら、時 を待ちましょう。
冬の中に春が芽生えているのですから。