葉加瀬太郎さんが、 「一滴の水は、自分が大河である事を知らない」 「大樹の一つの細胞は、自分が大樹であることを分からない」 …誰の言葉だといってたかなぁ ジュールベルグだったか… A=´、`=)ゞ でも、禅語で「曹源一滴水」 一滴の水が山から流れると、 そこに小川を作り大河となってやがて天下を潤す。 日本にあるたくさんの禅の宗派をたどると、 中国・曹渓の上流に住んだ慧能禅師(638~713。唐の人)にたどりつきます。 この川の源流を曹源ということから、 今日ここまで広く繁栄した慧能の仏法を「曹源の一滴水」といいます。 たった一滴の水が大河になっていく様は、 たった一人の説法が弟子から弟子へと伝承され、 やがて世界に伝わり人々を救済する様と重なります。 一滴の水を大切に。 一滴だからと粗末にせず、 一滴だからといじけることなく、 その一滴水は大海の源泉になるかもしれないのです。 森の樹木を救うかもしれないのです。 一滴水には、とてつもない可能性がある。 人間1人には、とてつもない可能性がある。 繁栄の言葉としてよく使われます。 志賀直哉「大河の一滴」は、 「人間が出来て、何千万年になるか知らないが、 私もその一人として生まれ、今生きているのだが、 その一滴は後にも前にもこの私だけで、 しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。 『大河の一滴』(五木寛之著)では、 それは例えるなら草の葉の上の一滴の露だと… 一滴の露は森の湿った土に吸いこまれ、 そして地下の水脈は地上に出て小さな流れとなり、 やがては渓流となり、大河に合流する。 海は濁った水も、汚染された水も、全ての水を差別なく受け入れ、 やがて太陽の光に熱せられ、 蒸発して雲となり、再び雨となって地上に注ぐ。 人間など生命が生まれて死ぬまでの一生を 五木氏は、そのようなイメージで捉える。 人間の一生は大河の一滴であり、 それは一滴の水に過ぎないが、 大きな流れを形作る一滴であり、 永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと言う。 ライブは、とても良かったです。 ヾ(@^(∞)^@)ノ
(そうげんのいってきすい)って、言葉があります。
その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。
例えていえば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、
何万年溯っても私はいず、
何万年経っても再び生まれては来ないのだ。
それで差支えないのだ。」
五木氏は、我々人間はちっぽけな存在に過ぎず、